石炭産業科学館(大牟田市)

福岡県大牟田市は,かつては近代日本の発展をささえた炭鉱町です.現在は廃坑してしまい,町にも活気がなくなってしまっていますが・・・非常に面白い町です.この施設を見学すれば,石炭の歴史(大牟田の歴史)がわかります.また,三池争議に関しての映像などもあります.ここは見学すべきです.お勧めですよ.近くにRDF発電所もあり,予約してれば見学できるはずです.是非,行ってみてはどうでしょう.
明治の街角に灯っていたガス灯や、昭和の家庭や学校を温めたストーブなど石炭と暮らしをつないだ道具,石炭採掘時に使用された機械などの展示があります.石炭の活躍の幅広さをあらためて知ると思いますよ.
科学館の映像ホールにて以下の映像が見れます.相当,良かったです.(以下HPより抜粋)

炭都シンフォニー「炭鉱電車の走るまち」
大牟田のまちが炭鉱とともに発展する中で,どのような歴史的な出来事を経験し閉山を迎えたのかを,簡潔にまとめた入門編の作品です.

炭都シンフォニー「みいけ 炭鉱(やま)の声が聞こえる」
大牟田が炭鉱と共に発展する中で培った歴史と文化を知るための学習教材用とするため,膨大な撮影テープの中から歴史的な出来事を網羅するように,厳選した映像によって完成した作品です.

炭都シンフォニー「三池の語りべたち 1部」
炭鉱の発展とともに大きくなった大牟田のまち.ここには様々な歴史がありました.それらを大きく三つのテーマにまとめました.1部は終戦までの歴史と炭鉱の仕事について紹介しています.

炭都シンフォニー「三池の語りべたち 2部」
2部は戦後最大の労働争議である三池争議にスポットをあてた作品です.

炭都シンフォニー「三池の語りべたち 3部」
3部は炭鉱での災害を生き抜いた本人やその家族の証言を集めた作品です.
大正時代の宮浦坑の写真です.明治21年(1888)の竣工から昭和43年(1968)の閉坑までの80年間に三池炭鉱の主力坑口の一つとして約4000万トンの石炭を産出しました.特に大正12年に開設された大斜坑は,わが国で初めてベルトコンベアによる連続揚炭を実用化した坑口として知られています.宮浦坑の回りには,三池染料工業所,三池製錬所など化学コンビナートが形成されていきました.このコンビナートは,日本最古のものと言われています.
大正時代の宮原坑の写真です.右側が第一立坑櫓(やぐら)で左側が第二立坑櫓です.明治31年(1898)に開坑.第一立坑と第二立坑,そして当時世界でも最新鋭の排水ポンプであったデービーポンプを備えたものでした.明治・大正期の主力坑として年間40万〜50万トンを出炭し,昭和6年(1931)に閉坑しました.宮原坑の第一立坑では,昭和5年(1930)まで多くの囚人労働者が使役されました.
大正時代の万田坑の写真です.中央が第一立坑櫓(やぐら)です.左奥が第二立坑櫓で,これは現在も残っています.明治35年(1902)に開坑.昭和26年(1951)閉坑.三井鉱山が炭鉱業界の模範となるような坑口施設を造るため,総力を挙げて建設したもので,明治時代に造られた炭鉱施設としては,我が国最大の規模を誇りました.
遠浅で干満の差(5.5m)が大きい有明海は大型船の着岸が難しいので,三池港ができるまでは,三池炭の搬出は大牟田川の河口から小舟で島原半島南端の口之津港まで運び,そこで大型船に積み替え各地へ送られていました.しかし,出炭量が増えるにつれ、大牟田で直接大型船に積込むことができるよう港が必要になりました.この工事の指揮を執ったのは三池炭砿事務所長の團琢磨でした.
明治41年(1908)に設置された移動式船積機です.写真はイギリス船へ石炭を積み込んでいる様子です.この船積機は,明治31年(1898)欧米視察の途に就いた團琢磨や牧田環がアメリカの炭鉱の選炭機にヒントを得て,三池の技術主任黒田恒馬と協同で設計したものです.三井鉱山株式会社の特許に属し,正式には「特許三池式快速船積機」といいます.設計者である團と黒田の名称をとって通称「ダンクロ・ローダー」と呼ばれ,3機設置されました.
池炭鉱は,明治6年(1883)から明治21年(1888)まで官営でしたが,その初期から採炭作業に囚人が使役されていました.囚人労働は,三池炭鉱が三井に払い下げられた後も引き継がれ,昭和6年(1931)に停止されるまで継続しました. この囚人たちを収監したところが三池集治監です.現在は,福岡県立三池工業高校が設置されています.

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